2013年に体験した鶏屠殺ワークショップレポートagain

2013/03/23に参加した、にわとりの屠殺ワークショップのレポートブログ記事をこちらにも再公開します!

解体中の写真があるので、苦手な方はスルーしてください(個人的にはそこまでグロくないと思っている)。でも最後に自分で書いていた感想は我ながら素晴らしかったので、命と、殺しと食べ物について興味ある人はぜひ読んでね!(笑)

ご友人の手伝いという形まで発展した屠殺ワークショップに初めて参加してきました。今回のレポ記事はワークショップ中に撮った写真を惜しみなく公開します。鶏がお肉になる様子です。

ワークショップを主催してくれたのは、O:NIKU Stationという名前で活動しているご友人。

つい私のおばあちゃんの世代には比較的身近なところにあった、生きた鶏を解体して食べるという日常生活の中の行為、今まさに10年後には全く分からないことになるようなそんな、かつては当たり前だった「命をいただく」ということについて、ワークショップを通じて考えます。

まずは座学。

主催の桂さんがこのワークショップをやることになった経緯、それぞれの参加者の自己紹介、そして作って来て頂いたテキストを読みます。

テキストは鶏と日本の文化について。卵を生む用の鶏と食べる鶏は別なこと、卵を生む用の鶏はひよこの時点でオスは全部廃棄されていること、食肉用の鶏は生後50日で大人の見た目になるやつが使われていること(普通は半年)など。

元々食べられていなかった鶏の話から、昭和40年くらいから食肉の鶏産業?が出来ていった話など。人間がいつ他の動物の肉を食べ始め、宗教的な理由などでそれを禁忌としたのか、そういう流れが個人的に気になった…。

屠殺の方法と解体の方法についても説明。屠殺の方法は三種類あるとのことだった。

 

鶏が本日連れてこられる途中で生んだ卵。鶏は元々年間20個くらいしか卵を生んでなかったのが、現在の品種では毎日生むくらいのものになっているらしい。生まれて約二年でお役御免となり、加工食品になるのが卵用鶏の流れとのこと。今日の鶏はそんなお役御免の卵用鶏。

鶏さん。うるさいのはオスだけで、これはメスなので静か。「コー」と言ってるのが結構癒される感じ。

鶏さんを捕獲。おとなしい。

羽を縛る。暴れないように。鶏さん嫌がる。顔を手で覆って暗くするとおとなしくなる。

いよいよ切る場所の指導。本日は初体験の女性が挑戦。首のここを切って、との指導。

動脈を切って、血を出す。なるべく苦しまないように(暴れないように)上手くやるのが大切。主催のご友人は前日夜に必ずこの時にスムーズにいくように、しっかり包丁を研ぐのだというお話をしていたことが印象的。

鶏から血が出る。そんなには出ない。死んでいく時間。ゆっくりと止まっていくような時間が流れる。

 

命が絶えた後は毛を抜く。75度のお湯に浸けると抜けやすくなる。

何度も繰り返して一生懸命毛を抜く。大変な作業。ここで美味しそうな外側の見た目を作ることになるので根気。

鶏さんの首は毛を抜く前に切り落とされた。鶏さんありがとう。

毛を抜いたらいよいよ解体。もうお肉みたいだけど、まだまだこれからが大変。

桂さんの指導を受けながら頑張って解体していく。
身体の仕組み、どこに何があるか、どうすれば効率良く作業できるか、、
知識と技術の世界。

なかなか大変な解体作業。何度も日常的にやらないと覚えられそうにない。

逆に言うと、このような作業は何も特別なものではない、生きる知恵として必要とされたからこそ受け継がれて来た知識と技術なのだ、とも感じる。

お肉パーツを切り分けていく。

いよいよ内蔵。お腹の中身。

これはガラ。

内蔵と身体の中心。卵が作られる場所が分かった。黄身の素が大小いっぱい付いてる。身体の中心にあった。

 

解体終了。これから料理の段階に。

鶏さんをいただきます。

ワークショップの感想と参加者の人と話をしたことについて。

私は元々去年(2012年)くらいから、屠殺についての気持ちが高まり、自分が殺せないなら肉を食べる資格なんて本来無いんじゃないだろうか、と思って今年それを体験しようというのは密かに考えていたことだった。今回そういった機会を得て、実際に目の当たりにしてみて、思った以上にこれまで自分が感じていた違和感や分からないなと思っていたことが解決していくような、腑に落ちる感じがして、本当に参加して良かったと思った。

また同時に、これは特別なことではなくて、単なる、人間(動物)が生きていくために行って来たひとつの在り方の形であって、一種のパフォーマンスめいたものとして捉えることは全く違うとも感じた。日常的に行わなければ、技術が身に付くこともないし、そういった意味で一回見たからといって何か終わりという類いものでは全然ないという気持ちが強まった。参加する前は「一度体験せねば」というような気持ちだったので、ひとつの大きな変化かもしれない。

鶏さんがお肉になっていく過程を見て思ったことは、日頃、鶏/固まりの丸ごと肉/バラバラになって売られているお肉、というのはそれぞれ切り離された個々のパーツでしかなかったものが、ひとつの流れの中で繋がってみれたことが、なんだか不思議な感じがした。それぞれのシーンで知っている姿ではあった。でもそれがひとつの時間でつながっていた。

鶏の首に刃を入れた女性の言葉が印象的だった。自分は、冷静に取り乱さず出来るだろうという気持ちで、実際冷静な気持ちで取り組んだけど、終わってからしばらくひどい耳鳴りが起こった、と言っていた。頭で考えていることと実際感じていることの違いについて意識させられたそうだ。実際はきっととても緊張したということなのだと思う。

刃を入れることをした人としない人でも、屠殺の経験は全く違ったものになるのだろうとも思った。次は私もやらなければと思った。

死んだばかりの鶏さんの身体は命そのものが溢れているようだった。

毛をむしったり、解体したりの作業は結構大変な手間で、自分が日常的にこれをやってまで鶏食べたいかというと、そうは思わないので、その程度には飽食の時代なんだなとも思った。半年に一度くらい「鶏食べたい!!!」というのがどうしても出て来た時にやるのかもしれない、とも思う。自然な命を頂く数は本来そういう感覚でペースが維持されているのかもしれないとも思った。手間をかけることについても、改めてちょっと意識した時間だった。

お肉や内蔵は理科の授業みたいで興味深かった。動物の身体は綺麗だと思った。

全体的にそうやって普通に興味深く観察をしていた自分について、意外と普通だなと思っていた。鶏の命がお肉になることについて意外と普通だなと。でも上に書いた、実際に刃を入れた女性の話で、私が刃を入れていたらまた全然違うのかもしれないとも思った。

でもなんだかあまりにも自然に思えて、不思議な気がした。

もっと、鶏さんに対して可哀想とかヤメテ!とかいう感情、食べたくないという感情が出てくるかなとも思っていたけど、全然無かった。

今思えば、そこに残虐性が無かった(と感じた)からかもしれない。

刃物を入れる為に鶏を押さえる時にいわゆる「痛めつけてやる!」とか「覚悟しろ!」みたいな感情は一切ないのは十分に感じ取れるわけだったし、むしろ「よしよし大丈夫だよ、ありがとな」といった穏やかな心があったからなのかなと思った。

ワークショップの会場になった、うちの大家さんの家に住んでる女の子が飼ってる小型犬が後半に来て、うちの二歳の息子がその犬のしっぽをひっぱって怒られたりしていた。その時、犬に優しくしなさい、痛いのは嫌なんだから、、と言っている自分について、さっきの鶏についても、同じなのかなと思った。鶏さんも痛いのは嫌だし、優しく、苦しまない様にする、というのは犬に対して優しくする気持ちと同じ感情のように思えた。

その時、死は特別なものじゃないんだ、と思った。犬も自分も鶏も、死は生と同じくらい当たり前にすぐそこにあるもので、そんなに大きな違いがないんだと感じた。ずっと「命を大切に」という言葉からは、生き物を殺して食べることへの矛盾が埋まらないという葛藤を感じて来たのだけど、それが腑に落ちた。その言葉だと虫なら喜んで殺すくせに猫や犬を殺すとひどく非難される、人間の文化についての違和感もずっとあったし、そういった意味ではとても良い感覚に出会えたと思った。

またそれと関連して死にゆく鶏さんについて、何かを守る為に死を覚悟する人間のことなどが後から連想された。人も死を受け入れる時は来たりする。どんな理由でかは別として、もう死ぬしかないといった時に、自分もああいった風に穏やかに世界が閉じていくような感覚に至るのだろうなとも思った。その時、自分だったら、美味しく食べられるなら本望だな、という気持ちが浮かんで、そういう気持ちは今まで思ったこともなかったから少しびっくりした。誰かの何かの役に立つ死なら、受け入れやすくも感じた。食べられるって何か素敵なことだなとも思った。こんなに都合がいい考えが自分に浮かぶことにはちょっと笑えるけど。

ともかく殺すこと、死なせることは特別なことではない、むしろ生きることと表裏一体、同じことでもあるのだ、自分が生きることは誰かの命を頂いているということだというのが沁みた。ありがたい、という気持ちがよく分かった。鶏さんの命は私の身体の一部になってくれた。鶏さんが今日まで元気で生きて私の一部になってくれたことにとても嬉しく感じてありがとうと思えた。命は「大切」なんじゃなくて「尊い」のだという感覚。

逆に、これまで形式的な教育で身につけた「いただきます」という言葉、今書いていることも、人から口では理屈で教わってきたこと、なんて実感の伴わない中身の無い感覚だったのだろうかと思い少し愕然ともした。やはりこれは知らなければいけないことだと思った。パック肉では分かりっこないことだとも。

参加者の人とも色々な話をした。印象に残っているのは「土葬されたい〜〜」と言い合っていたこと。死んだ時に土に還ることが出来るっていいなぁと感じて、自然とそんな話をしていた。鶏さんの死を見て、自分の死についても感覚が自然なかたちで近づいて開かれているような気分だった。

同じく参加者の人が、かつて与那国に一時期住んでいた時、そこに行った時は菜食主義者だったという話も興味深かった。菜食主義者だったけど、力仕事をしていたら体力が足りなくなって倒れる寸前までいったとのこと。その夜唐揚げを大量に食べたら元気がものすごく出たということだった。都会での暮らしなら菜食主義でもいいんだろうけどね、と言っていたことも印象的だった。その人は自分の身体でもって、お肉の力の大切さを感じ取ったのだなと思って、それこそまさに、命をいただくありがたみの極みだなと思って感動した。そんな体験は実際はなかなか出来ない。でも昔の食べ物が貧しかった時代の人はそれもよく分かっていたのだろう。だから命をむやみに殺したりせず大切にできるのだろうということも分かる。

鶏さんの命を通じて、本当に色々なことが実感として分かってすごく良かったと思えた。

自分はこれからもパック肉は買って食べることは出来る、そういった意味で人間が変わるということは無い、それはそれで良いのだとも思う。自分が育った時代や文化について突然切り離して考える程極端にはならなくてもいいとも思っている。ただ、そのパック肉から派生している問題があるとすれば、自分なりの態度で新しい取り組みは始めていくべきだろうと思った。パック肉に入っている鶏さんは何羽なのだろうかということくらいは、考える。

最初にも書いたけど、10年後20年後には日本でほとんど消えてしまうような、人間が手を使って命をいただくという行為の知恵と技、それについてはこれからも積極的に考えて何かしらの形で自分の動きにも活かしていきたいと思った。