何を探し、何を見つめるか。

 

悪い面を探せば悪い面は際限なく見つかる。
良い面を探せば良い面は際限なく見つかる。

疑えば、疑わしきが見える。
信じれば、信じうるものが見える。

何を探し、何を見つめたいのか。

私は与えられている全てへの感謝を見つめ、よりよく変化していくこの世界を探したい。

同じ時代に生まれ同じ時間を生きる仲間たちと、その奇跡を喜び合いたい。

 


 

新型コロナウィルスがそれまでの生活を色々と変え始めてから大体1年半くらい経った。最初の頃は分からないことも多く、皆それぞれ気をつけようという意識は、大方強かったように思う。

感染対策の知識を共有し、広め、各自が取り組んできた。それでも、現実としては厳しい状況が続く。緊急事態と言われ耐え、改善したと思ってもまたすぐに緊急事態と言われるような日々。流石にみんな疲れているということは、周囲を見渡してもよく伝わってくる。

そんな中で友人とメッセージのやりとりをする機会があって、改めて自分が何を大切にしたいと思っているかを言語化することが出来た。

日頃、あまりわざわざ書かないようなことだけど、そのことについて意識できるということはきっと意味があるのだと感じている。

 


 

・黒幕はいない。自分の中にある不安や不信こそが、敵と考えている存在の正体なのだと私は思っている。

・人間は、全く賢くないただの動物なので、良かれと思ってやっても盛大に間違えを犯すし、自滅しちゃったりする。そんな不完全さや愚かさ、無駄に足掻く我々を愛おしいと思えるところから、私たちは生まれ、今も生きているのではないだろうか。そしてだからそこ、失敗から学び、自己や他者を許すように成長していく余地があるのだと思う。

・私は、たとえ明日世界が滅びても今日リンゴの木を植えたい派である。

・私は、今目の前の暮らしの中で不安や怒り、恐怖に取り憑かれて暮らすよりは、この宇宙に産まれた奇跡とか、生きる喜びとか、たった数十年の命の中で少しでも幸せを選択していくことに時間を使いたい。仮に何か大切なものが奪われているのだと思うのだとしても、個人の尊厳や頭の中の自由は自分で守れると私は信じている。

 


 

熊本市現代美術館での学芸員実習は2003年頃だったと思う。当時の学芸課長の南嶌宏さんから聞いた、熊本にあるハンセン病の隔離施設での話は今も強く心に残っている。

強制的に堕胎させられた女性が、赤ちゃんの人形を何十年も我が子として大切にお世話して暮らしているという話。

一生出られないとされた隔離施設の中で暮らしながら、故郷である奄美の美しいガジュマルの木の絵を描いた男性の話。

人は間違う。理不尽な暴力は、人の自由を奪う。それでも、人の心にある創造性、想像する力を奪うことはできない。人間の持つ尊厳は決して奪われないのだということ。そこに人間の尊さを感じたというお話だったと記憶している。

人が持つ可能性、イマジネーションと創造の力を私はずっと信じたいのだと思う。