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巡り合わせ、紡ぐもの

ご縁に感謝することは、生きていくことの全てのようにも感じたりする。   縁とは巡り合わせだ。でも、それ以上に、紡ぐものでもあるのだと、ふと強く感じたりもした。相手の気持ちに応えようとする態度、お互いのことを大切に思う態度、そういった気持ちのやりとり、振る舞いが、縁を紡いでいく。 困った時の助け合い、会いたいという気持ち、ちょっとした心配り。あなたのことが大切ですよ、というメッセージ。 手を伸ばすこと、手を差し伸べること、その手をちゃんと掴むこと。特に肝心な時に、しっかりそれをやれること。そこに誠意が宿る。 人間関係の本質って、結局そういうところなのだろう、と思う。     私はたくさんの暖かなご縁に恵まれて生きている。たくさんの人が、私が困った時は優しい言葉をかけてくれるし、手を差し伸べてくれる。会いたいと言い合える人がいる。そうやって実際に会える人がいる。本当にありがたい。 それと同時に最近は、ポツリポツリと、本当は大切にしたいと思っていたのに、それが叶わない、心がヒリヒリするようなやり取りがある。ポツリポツリでも、随分多く感じてしまうのは、私が日頃恵まれているからだと思うけど。 誠意を感じない、手を離される、そう感じる出来事。   大切にしたいなと思っていたのに、心を開いて手を伸ばして、相手が応えてくれないと、やっぱり心が痛む。具体的には胃がヒリヒリする。悲しい。残念だなぁ、と思う。 と同時に、私も誰かのことを同じように悲しい気持ちにさせていることもきっとあるのだろう。   ただ、私は表面的に笑顔で当たり障りなく取り繕うような人間関係を選びたくない。自分の本音で生きていたいから、気持ちは伝える。そしてその中で気持ちの交換がうまくいかないなら、諦めるしかないんだろうなぁとと思っている。不器用なやり方かもしれないけど。   縁というものはそうして、時に簡単に綻んでいく。勿論、人間関係なんてそれが大半なのかもしれない。出会っても、時が来ればどんな人とでも離れていくのかもしれない。     それでも私はやっぱりご縁を紡げる誰かとの巡り合わせを望みながら生きる。それが私を生かす全てだと私は知っている。   難しいなと思う時もある、綺麗事じゃあ無いよなぁ。でもそれは学びなのだ。   この先もご縁に感謝して、紡いでいく大切さを忘れずに生きていきたいなぁ。

「死ぬまでにやりたいことリスト100」を考えた。

ご友人つながりで知ったブログで、死ぬまでにやりたいことリストが公開されていて、面白いな〜と思ったので、私も作成してみました。 32歳記念!「死ぬまでにやりたい100のリスト+α」3度目の振り返り 100はなかなかキツいだろうなと思ったけど、細かいこと入れていくといくらでも増やせる、というか、ひとつにまとめられる気がするやつもあるし結構ざっくりに….。 日頃いつ死んでも悔いが無いように思って生きておりますが、可能な限り、願いもどんどん叶えていきたいなぁと思っています。 「死ぬまでにやりたいことリスト100」20190110ver. 大学院にいく 留学する 海外での暮らし ウユニ塩湖にいく 南の島の透明な海を泳ぐ 再婚する 東京でも仕事をする 世界でも仕事をする 家を複数ゲットする メディアに出る仕事をする 人に教える講座を持つ 人に教える仕事もやる アート活動でのしっかりした収入を実現する 外国人の友人をたくさん作る 飛行機や新幹線でホイホイ移動できる自分になる でかい仕事をたくさんする 本を出版する 英語での円滑なコミュニケーションを達成する 生涯現役 ベルギーに行ってワッフルを食べる フランスの田舎に行く 陶芸での作品制作 家族旅行を国内海外含めてたくさんする 大好きな車をゲットする 成人した娘と息子と一緒にお酒を飲む 車での旅と車中泊 面白い博物館、美術館、水族館にたくさん行く パートナーと生涯愛し合う 野外フェスに行ってみる 豪華なホテルに泊まる アーティストインレジデンスに行く 国際美術展に出展する 世界の第一線で活躍する人たちと友達になる 良い庭を持つ 子どもと一緒に学ぶ 出雲大社に行く マリメッコの服を着る 困っている人を助けることができる心のゆとりを持ち続ける 夢を与える 希望を見せる 素敵な街に住む 圧倒的親孝行 自給力の高い暮らしの追求 歳を重ねるにつれ美魔女になる ランニング、運動の習慣を身につける アメリカに行く クヌギの森を作る くるくるハイツの母屋と周辺建物が快適に使えるようになるまでがんばる くるくるハイツをいつでも帰れる実家のような場所にする 野菜自給の幅を延々広げていく 何倍も美しくなる化粧技を体験する 知覧に行く 事業を興す、組織を作る おいしい料理をたくさん作れるようになる 引き締まった体を維持する ミーレの食洗機をゲットする また京都に住む 社会貢献活動をやる ご縁のあった人に挨拶をする 「楽しかった」とちゃんと言う 感謝を伝えていく 悔いの無い選択を意識し続ける 若々しさを大切にする 美術館で個展をする 里親にチャレンジする モデルをやってみる 自分のお祝いのための盛大なパーティ クジラと出会う 「私も若い頃はヤンチャしたもんよ」と言い色々やらかした過去を暴露する 孫を抱く 財を成す ダンスを楽しむ 誰かのヒーローになる 花(チューリップとか)を育てる 養蜂 ワクワクする空間を新築でゼロから考えてみる パリのアパルトメン的素敵な都市集合住宅に住む オペラを観劇する オーケストラの演奏会に行く 能に詳しくなってたくさん見る 専門家になるための道の追求 ギリシャのサントリーニ島とか海沿いの美しい町を色々旅してゆっくり滞在する 人間的成長 夢を見る 人に頼りまくる アニメーションを作る 版画作品シリーズを作る 最高のアトリエ(スタジオ)を持つ ジャズの生演奏を聴く ピアノを練習する 福岡市内でアートセンターを作る タクシーに甘えられる自分になる 自動運転車の中で寝る 占星術の知識を実用レベルまで高めて役立てる 海外に住む友人宅を尋ねる これまでと分野の違う大学に通う 肉まんを作る ブレンダーをゲットする 自分亡き後にも誰かの元気になるようなものを残す おもしろ建築をたくさん見に行く   大体似たり寄ったりなことがありつつ、でもやはりこうして明文化して公開するのは意義深いですね。どこまで行けるか分からないけど、行けるところまで突き進むぞ〜〜〜。

先に進むことについて。

自分の願いを自分で押し殺してはダメだ。消耗戦にしかならない。情熱や欲望の波が激しい時も苦しさの嵐が吹き荒れる時も、静かに心の底から湧いてくる願いに耳を澄ませて、汲み取って大事にして。自分を愛してやれるのはまず自分しかいないんだから。堂々と自信持って、その願いに忠実に生きるんだ。 誰かや何かを好きだと思うその先に進もう。己の未来を切り開き、創造していける関係を模索することを忘れないで。

情熱への感化について

2018年9月18日の言葉。 結果を出してる人の言葉は圧倒的に強い。迷いもなく、真っ直ぐ貫く光のように澄んでいる。そういう言葉を聞く度に己の矮小さを思い知る。何かを願いながら望みながらそれを掴み取れないのは、ブレーキをかけているのは、他でもない自分自身なのだと思い知る。 卑屈さはどのようにして人間を蝕むのだろう。諦めや言い訳はどのようにして隣人のようになっていくのだろう。そのような経験無しに生きている人は居ないと思う。けれどそれでも尚くじけず、瞳を輝かせ汗を流しながら歩む誰かとの出会いがある。その輝きはいつも私の魂を震わせる。 後ろ暗い気持ちを持ちながら生きている人とばかり居ても己の魂も濁ってゆくだけではないかと思ったりする。ギラギラに磨き上げる情熱に感化され浮かされた熱意のままに生きてゆきたい。上手くいかないことも笑い、その経験を大きな糧とするような人生を創造したい。

「正しい私/いい子」で在りたい望みが弱さから来るのなら

(人から気に入られたい..)という動機で言葉を紡ぐ自分はほぼ無自覚に動いているけれども、自覚してしまうと浅ましく格好の悪い自分だなと思ってしまう。飢えているのかな、と。承認欲求の暴走。 同じように無意識の中で、(正しい自分で在りたい!)という思いや(「いい子」で在りたい!)と思っていた子ども時代から今までの自分というのは、本当に驚くけれど、最近やっとその存在に気が付いてきた。 他者から非難されることへの恐れがものすごくあったのだろうと思う。 可能な限り誰から見ても「正しく」在ることが、そのリスクを最低レベルまで下げる効率の良い手段になる。「いい子」であることも、最高のリスクヘッジ。ヤンチャは親や周囲の大人が許してくれる範囲でやるのが好ましい。私は無意識の中でそれを巧妙に選択して生きて来たし、そこから外れることに対して自分を許して来なかった。それは恐れに基づいた行動原理で、私の心はとても窮屈であっただろうと思う。そしてどこかそんな、自分は絶対に手を汚さすに、清廉潔白で無難な立場を選び続けることを守ろうと頑なになっている自分への違和感もずっとあったようには思う。(長女っぽいなとか思う) そこまで努力して、恐れから自分を守ろうとしてきた私の中で生じた歪みはそこそこの存在感を放っていたとも自覚する。 まず、清廉潔白で無難な立場をひたすら守ろうとする自分への違和感に耐えかねて、やはりリスクを犯してでももっとあるがままに生きたいという思いは抑えきれなくなった。そこにもはや理屈は無く、それまで押さえ込んでいたタガが変な形で崩壊したというだけのことだったのかもしれない。ただのアホやとも言える。 非難を避けたいという恐れは長年私を弱くして常に怯えさせていた。ちょっとした否定ですぐに自分が全否定されたかのように落ち込み、なかなかそこから立ち直れない自分を作っていた。あらゆる物事に対して常に自己弁護をしたい自分がいた。 「いい子」で「正しく」ある為に、ネガティブな感情、憎しみ、恨み、怒り、嫌悪感を否定してきた。結果、そのようなものが湧き上がる己の一側面を抑圧して、無いものにしたし、それを想起させる存在を封じ込めようと躍起になっていた。が、やはりどうしても滲み出てきて、そこのコントロールが上手くできなかった。 *** これらはただの内省趣味なのだけど、何がきっかけでこんなことを考え始めるのかということについても少し。今回は、棘のある言葉を発してしまう自分を自覚して、その原因を掘り下げていって出会った領域だった。自分の中に抑圧された憎しみや怒りのようなものが、棘になって出てきて、それをコントロール出来ていないのだなぁという発見。どういう時に棘が出てしまうのか、という部分に、抑圧がある。 個人的な体験が元になっていることがほとんどなので、感情を探りながら確かめてゆく。 私の刺々しさに触れたことがある一部の人からは「お前ほんまそれやで」的なため息が聞こえてくるようでもあるが、自覚というのはなかなか、他者から指摘されたからといってホイホイと進むものでもない難しさよ。 幼年期までの期間の出来事で父親に対する恨みのような感情を封じ込めてきたことを自覚しつつある。それと、私はある特定の人に対して妙に見下したような態度を取ることがある。この特定の条件についてはまだ掘り下げ中。 しかし実際のところこんな抽象的な領域はホログラムで、常につかみどころがなく、角度を変えれば紡がれる言葉も全く違うものになる。数ヶ月後には全く違う言葉で同じことを認識していたり、同じ言葉で違う意味を認識していたりもするのだろうと思う。まぁ世の中のあらゆることは、そういうものなのかもしれないけれど。 2016年はご友人つながりでヒプノセラピーというものを初体験した。要は無意識の中の自分との対話みたいなもの。日頃ボーッとしている時などは無意識だったりする、そんな領域にアクセスしてみるというものだった。日頃からこんな感じで内省趣味のある私とは相性が良くてパワフルな学びがあったと感じている。しかし同時に、抑圧している領域は、簡単にはアクセス出来なさそうだなということも少し感じました。 ヒプノのセッションを受けるとなんでもすぐに無意識が抱えた問題?を解決できるかといえばきっとそうでも無いのだろうと思って、だから結局日常の中でなるべく、自らアクセスする癖を付けておくこと。その中で出来れば苦しみ・苦しませの元になっている抑圧があるのなら、解放していくこと、そんなことを意識している。日々の筋トレのようなものとして。 嫌悪感や憎しみ、恨みを飼い慣らさなければ、暴走してしまう危険性を常に孕んでいるなぁと思う。私は戦争ってそこから始まると思っているし(人の心に巣食う抑圧されがちな感情なのだ)、世界平和は自分から、心の平穏を求めてゆきたいなぁと思っている。